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3月30日に、意味についてのメモを書いて推敲せず記事にした話

前々から考えて、頭の中にあったことを、改めて書き連ねるメモ。

 

 

 

「本質的な意味」
と言う言葉があるが、世の中にある事物で、本質的に意味を持つものなんかひとつもない。

 

 

例えば、目の前に水があったとする。

 

水の本質的な意味とは何か?
時には飲み物であり、時には消火に用いられる、ある種の防災道具でもある。
人々を死に至らしめる恐ろしいものでもあり、しかしこれがないと生きていけないものでもある。

 

 


水に本質的な意味なんかない。
状況や環境に応じて、それを確認した観測者が、解釈して、意味を与えるのである。

 


消防隊員が火災現場で水を見た時と、
同じ消防隊員が食事中に水を見た時では、全く水の持つ意味が違う。

 

 


水に限った話ではなく、世の中にあるほぼすべてのものが、この論法で括られうる。

 


フグは魚だが、食べ物でもあるし、毒でもある。


包丁は調理用具であり、殺人のツールでもある。

 

 

 

「意味を見出す」
と言う言葉も間違い。見出すという表現は、
「その事物が本質的な意味を持っていて、それを見つけ出す」
というようなニュアンスを孕んでしまう。

 

 

世の中に存在するもので、意味を本質的に伴っているものなんて、ひとつもない。
ただ、観測者が、解釈して、意味を与えるのみ。見いだせる意味なんてない。

 


みんなに愛される大スターも、ある殺人鬼からすれば獲物に過ぎない。
あなたが大好きなあの人は、僕にとっては大嫌いな動物かもしれない。

 

70億が共有しうるような「意味」なんて、ひとつもない。

 

 

 

意味は解釈して与えるものだから、本質的な意味なんて、考えるだけ無駄。

 


だからおそらく、馬が合う人というのは、
「意味の与え方が似ている」
人だ。同じ、ではない。
全く同じ意味の与え方なんて、たぶんできない。

 


そして加えて言えば、意味の与え方の最大公約数を探すことが、生きる手がかりだ。

 

 

この言葉の羅列に、意味はない。読んだあなたが解釈をして、意味を与える。

 


意味がないという意味すら、与えないと、意味がない。
これはメモ、だというのが、僕の与えたこの文章の意味。

 

 

 

ところで、文章って、どういう意味だ?