3月25日に、名前のことを考えた話

 

今日もお勤めだった。面白いことは何もなかったので、何も書かない。昼ごはんのトンカツが美味しかった。


今日は、身内しかわかんないような、でもわかるような話を書こうと思う。

 

1ヶ月と少しくらい前、たまたま僕は、しょっぱいパンさんに遭遇した。
パンさんはスーツ姿で、立派に社会人をしていた。偉いなぁ、と思った。

 


向こうから歩いてきたしょっぱいパンさんは、僕を見て目を丸くしていた。

「うわぁ、何してるんですかぁ!?」

と、いつもの口調で言っていた。
パンさんを知ってる人なら、脳内再生できることでしょう。

 

 

ちょっと用事で、なんて、僕は答えた、ってことにしておきましょう。
その時、パンさんはお仕事中だったので、頑張ってくださいっ、と言って別れた。
小さい「っ」を入れて発音した。

 

 

 

なんでこんな、1ヶ月と少し前の話を急に書き出したかというと、
今日書きたい話のきっかけになった出来事だからだ。
すなわち、名前というものについて、である。

 

実は僕、しょっぱいパンさんの名字だけは知っている。
以前、しょっぱいオモジャンの会(会場の人は、オモちゃんの会だと思ってた)で、ちらっと拝見する機会があったのである。
でも僕は、パンさんを苗字では呼ばない。呼ぶわけない。しょっぱいパンさん、と呼ぶのである。

 


また僕は実は、第三軌条くんの名前も知っている。LINEを教えてくれたので、多分向こうも、僕の名字を知っている。
彼の本名を眺めながら、そういうことかぁ、などとひとりごちていたけれど、決して僕は彼を、本名で呼ぶことはない。とうふくん、と呼ぶのである。

 

 

 

要するに、名前ってなんなんだろう?って話をしたいのだ。

 

 

 

親から子どもへ最初のプレゼントだとか、
意味の込められた大切なものだとか言うけれど、
実際世の中で生きて行く上で、本名不要な場面も、結構あるではないか。

 

つまりは名前ってたぶん、単なる識別記号なのだ。
その人が誰か(どの人間であるか)を区別するために与えられた、文字の羅列に過ぎないのである。

 


僕はしょっぱいパンさんを、しょっぱいパンさんだとわかっているし、とうふ第三軌条くんを、とうふ第三軌条くんだとわかっている。
決して二人を混同したり、二人の名前をあっちゃこっちゃにしたりはしない。

 


名前に意味はあるのだろうか?
その人が誰かを識別できるなら、正直、本名なんてどうだっていいんじゃなかろうか。

 

 

・・・と、思うじゃないっすか?
実は違うんだなぁ。本名はどうでもよくない。結構意味あるものだ。

 


端的に言えば、
「本名を知っているか否か」
と言うのが、親密さに関する一つの指針になりうる、と言うことである。

 


インターネット社会の到来が、文通時代以上の仮名世界(ハンドルネーム世界)を作った。

 


結果僕たちは、

その人がどこの誰なのか、
これまでどう言う人生を過ごし、
どんなところでどう生きているのか、

そんなことを知らなくても、その人と一定の関わりを築けるようになったのである。

 


だからこそ、本名の秘匿性、これが意味を持つ。
シークレット メイクス ア ウーマン ウーマンみたいな、なんかそんな感じだ。

 


本名が識別記号としての重要性を失った結果、かえってより深い意義が、本名に持たされうるようになったのである。
(持たされうる、と書いたのにも理由があるのだけど、これはまた別の機会に。)

 

 

 


・・・なんて、難しいこと書いてきたけど、
実は正直、そこまで考えてない。

いや、正確にいうと、考えてはいるけど、そこまで言葉にするのはしんどいし、そこまでやる気はない、といったところか。

 

そんな難しい話じゃなくて、
「本当の名前も知らないのに、仲良くしてもらえる関係って、不思議だなぁ」
と、思っただけのことなんですよ、ええ。

 

僕は色々こうやって、ベラベラと御託を並べるのが好きなんです。
わかったような、わからないようなことを、ペラペラペラペラと。

だから言うならばこれは、僕の改めての自己紹介なのだ。

 

僕という人間が、普段一人で、どんなことを考えていて、どんなことを言葉にしようとウダウダしているのかを、改めて知ってもらうための駄文だ。

 

 

諸君、僕は斯様な人間なのである。

 

 

 


・・・僕の名前ですか?
おしゃべり、です。