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もののけ姫考察⑥

もののけ姫考察

●神認識の誤認

 

要するに、何が言いたいかというと、

もののけ姫の作中において、シシ神こそが唯一真の神、絶対他者である本当の神であり、

もののけ達はそうではなかった、ということだ。

 

 

この一点、ただこの一点を、作中登場するほぼ全てのキャラクターが、誤解しているのである。

 

 

 

1.人間のシシ神認識

 

まず「人間」たちは、シシ神をどう認識しているだろうか。

 

ずばり彼らはシシ神を、「もののけの親玉」だと思い込んでいる。山犬や猪、猩々といったもののけ達、その総大将こそがシシ神だと考えている。

 

言い換えてしまえば、シシ神をも、もののけの一種だと誤認しているのである。

  

 

何度も書いてきたように、もはや「人間」たちにとって、もののけは、駆逐し得る存在である。であるならば、「もののけの親玉」であるシシ神を、駆逐できると彼らが考えたのにもうなずける。

 

 

もちろん、その認識が誤りであったことは、その後の展開を見れば、火を見るよりも明らかなことだ。

 

 

 

 2.もののけ旧人のシシ神認識

 

また、シシ神に対する認識を誤っているのは、なにも「人間」だけではない。

もののけ達、またその崇敬者である旧人(サン)も、その認識を誤っている。

 

さすがに彼らは、シシ神を「もののけの親玉」とは考えず、森の神として崇敬しているのだが、その崇敬の仕方に、認識の誤りが見て取れる。

 

例えば、乙事主。

彼はその最期において、タタリ神へと身を堕とすわけだが、その理性が失われる直前、シシ神に向かって、

 

「お前も森の神なら、人間どもを滅ぼせ!」

 

というようなニュアンスの叫びをあげる。

(かなり朧気で申し訳ない。なにぶん、この考察を書き始めて、もう2週間たつのだ。)

 

 

いま僕の目の前に乙事主がいたら、

「いや、だから、神には干渉できないんだって。何を言ったって、影響することなんかできないんだってば。」

と、言いたい。怖いから、たぶん言えないけど。

 

 

今は乙事主が目の前にいないので、言える。

はっきり言ってしまうが、シシ神は、「人間」の敵ではないし、「もののけ」の味方でもない。シシ神は、完全な超越者、絶対他者なのである。

絶対他者の前に、敵とか味方とか、そんな括りはない。そもそもこちらからは、関係を持つことすらできない存在なのである。

 

 

いや、存在ですらない。存在と言ってしまえば、それは「在る」ことになってしまうから。

絶対他者であり、超越者である神の前には、在るとか無いとか、そんな括りすらもないのである。

 

とにかく、これだけは強く言っておくが、人間が与える尺度による表現は、本来不可能な存在なのである。

作中ではあのように、大きなトナカイのような姿形をしてはいるものの、あれだって、シシ神の姿そのものかといえば、おそらくそうではない。

 

「我々にそう見えている」

 

というだけの話である。

 

 

 「人間」にしても「旧人」にしても、シシ神を、なにかの最上位である存在だとは思っているのだけれども、そもそもシシ神は絶対他者なので、我々と比して上、という発想自体が適用できないのだ。

 

 

 

ここまで大丈夫ですか?理解できてますか、ついてこれてますか?

もうちょっとで終わるから頑張ってくれ、よろしゅう・・・。 

 

 

 

 

●シシ神は、結局なにであるのか?

 

シシ神こそが、唯一の絶対他者、真の神なのだと、ここまで説いてきた。

 

とはいえ、やはりどうしても、多くの読者諸氏の中では、神という言葉の認識変化が、うまくいっていないことだろう。

 

特にわれわれ日本人にとって、神様といえば、

「杖を持ちひげをはやした白い服のおじいさん」

で有りがちだ。

 

そういう神のイメージを、この際一切捨ててほしい・・・のだが、難しいかなあ。

 

 

仕方ないから、呼称そのものを変えてしまいましょう。

というのもおそらく、「神」という呼称の存在が、今回の神認識の問題を、ややこしくしているからである。

 

 

言ってしまえばシシ神は、神とはいい上、われわれが日々「神様」として崇敬するような存在(機械仕掛けの神とか、ひげをはやしたおじいさん)とは、まったく別種のナニカなのである。

 

 

つまりは、我々が決して干渉もできないし、変えることもできないなにか。

 

 

 

 シシ神はいわば、「理(ことわり)」なのである。

 

 

「理」は、時代や環境、ヒトの在り方の変化などに、一切制約も影響もされないものだ。 

シシ神は「理」の中でも特に、「生と死の理」である。理をつかさどる者、ではない。理そのものなのである。

 

 

宮崎駿曰く、「シシ神は神の中でも低級」らしいが、これを僕なりの解釈で言い換えると、

「生と死の理は、理の中でも下方に位置する」

という意味になる。

(注意しておくが、これは、僕の解釈だ。宮崎駿の代弁とか、そういうことではない。堪忍してくれ。)

 

 

 

この、「シシ神は、生と死の理である」という認識に、ほぼすべての登場キャラクターが、至れていないのである。

 

 

 

ただ一人、アシタカを除いて。

 

 

 

●アシタカのシシ神認識 

 

 

アシタカは、シシ神が「生と死の理」であることを、本当によく理解している。

 それは作中の節々でわかることなのだが、もっともわかりやすくそれが言い表されているのは、やはりクライマックスのシーンだろう。

 

 

映画のラスト直前、アシタカとサンは、緑が戻った大地を眺めている。

シシ神があおむけにひっくり返り、風となって、命を与えたのである。

 

 

サンはシシ神が風になったのを受けて、「シシ神様が死んでしまった・・・」と嘆く。ここに、サンですら、シシ神に対する認識を誤っているという事実が、克明に描かれている。

 

 

そんなサンの嘆きに対して、アシタカは、次のように言う。

 

 

 

 

「シシ神は死なないよ。命そのものだから。」

 

 

 

 

 

本当は、この発言すら、不十分ではある。

なぜなら、「死なない」のではなく、「死ぬも生きるもない」というのが、正確な表現だから、である。

 

 

とはいえ、ヒト(これは、私もあなたも含めて。)の現在の理性によって、それを理解することは不可能であるし、言葉にするのも無理なのである。

アシタカの言葉は、ヒトに可能な範囲で、もっとも明確に「理」というものを言い表している、と言える。

 

つまりアシタカは、シシ神が、ヒトやもののけといった、この世的なものと同じ範疇にはないことを、受け入れているのである。

この受容こそが、本作の伝えたかったテーマではないかと、私は思うのだ。

 

 

 

●『もののけ姫』が問いかけたこと -これからの時代の神認識-

 

もののけ姫』という作品が、我々に問いかけたこと。

それはいわば、ヒトの限界を知り、それを受容すること、だったのではなかろうか。

 

 

それも単なる、自然を大事に!とか、生き物を愛そう!とか、

そんなシンプルで薄っぺらな方法論によることなく、である。

 

 

 

宇宙のはじまり。

死んだらどうなるのか。

我々はどこからきて、どこに行くのか。

 

 

ヒトにはどうあがいたって、解明できない世界の秘密が、確かに存在する。

科学技術の発展、文明の進歩に伴って、ヒトはそうした秘密の存在を、忘れてしまいつつある。

 

いや、忘れてはいないのかもしれない。単に、目をそらしているだけなのかもしれない。

いずれにしても、ヒトはいつごろからか、ヒトの力に対して、過大な信頼を置くようになってしまったのだ。

 

 

しかし、現実の世界はどうであろうか。

森とタタラ場、旧人と人間のような対立構造が、我々の生きる現実の世界には、あまりにもたくさんあふれていないだろうか?

それは、『もののけ姫』から20年が経過した今なお、である。

 

EUの理想は、70年の歳月を経て、儚くも崩れ去ろうとしている。

人類の共生と寛容。それとは全く逆の方向へ、時代は移りゆこうとしている。

 

 

世界はこれから、どうなっていくべきなのだろうか。

 

これまで人類が歩んできた道のりは、もはや答えを与えてくれない。

自然崇拝も、あるいは技術崇拝も、決してこれからの時代に答えを与えてはくれないのである。

そういう地点まで、人類はすでに到達してしまったのだ。

 

 

その先に行くことを、善しとしない人たちがいる。

その場所にとどまることを、善しとしない人たちもいる。

どちらも正解ではないし、どちらも誤りではないから、問題は簡単に解決しない。

 

もののけ姫』という作品に、悪は登場するだろうか?

人間は悪だろうか?もののけの森を奪うから、人間は悪と言えるのだろうか?

 

 

私は、言えないと思う。

人間には人間の理屈があるし、もののけにはもののけの理屈がある。そのどちらも、100パーセント正しくはないし、100パーセント間違いでもない。

世の中、簡単な二元論によって片づけられる問題なんて、ほとんどない。

 

 

 

ほとんどないということを、ヒトはもう一度知らなければならないし、そしてそれを受容しなければならないのである。

 

それは本当に、過酷な道である。

お互いの非を貶すだけならば、誰だってできる。それはこれまでの70年・・・いや、140年、繰り返され続けてきた、我々の歴史そのものだ。

 

 

だが逆に、互いの非を認め、受け入れ合い、なおかつ互いにとってもっともよい道を模索することは、これ以上がないほど、難しいことだ。

 

 

難しいことだけれど、そうするしか、我々の進むべき道はないのである。

アシタカがタタラ場で暮らすことを決意したのは、まさにこの受容と共生、その道を歩むことを決意したのと、同義なのである。

 

 

ヒトの限界を受け入れなかったから、エボシは片腕を失うことになった。

ヒトの可能性を信じなかったから、サンはひとり苦しむ日々を送った。

 

 

アシタカは、そのどちらの苦しみも、分かち合うことのできる存在である。

僕たちはこれから、アシタカのように生きなければならない。

 

ヒトの限界を知り、受け入れつつ、なおもヒトの可能性を信じて、生きていく。

世界の理を受け入れて、理の中で、なおもヒトとして生きるしか、我々の進む道はないのである。

 

 

 

 

 

 

こんなことを僕は、もののけ姫を見て、考えたのでありました。

 

youtu.be

 

 

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