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もののけ姫考察②

もののけ姫考察


●サンの位置付け

 

1.山犬の娘として

サンが果たしてどういう存在であるのかは、かの有名なシーンにおいて、山犬モロが明言してくれている。美輪明宏の声で。以下に引用する。


「黙れ小僧!
お前にあの娘の不幸が癒せるのか。
森を侵した人間が、我が牙を逃れるために投げてよこした赤子がサンだ。
人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い、可愛い我が娘だ。」



ここに見ての通り、サンの存在意義が集約されている。つまりサンは、神への生贄なのである。

神への生贄として捧げられた少女。
この字面だけを見れば、不幸であるけれども、ある種殉教のような、神聖なイメージすら感じられる。

しかしながら、それはもはや、過去の話となってしまったのだ。
エボシの登場は、山犬モロを、神からもののけ、忌むべき化け物へと変えてしまったのだ。
そうなればもはや、サンは神への生贄ではない。
ただの、化け物の娘だ。

サンがエボシの命を執拗に狙うのは、森の仇敵であるという理由以上に、
「自らの存在価値を奪った」
ことへの恨みがあるからではないか。





・・・と、◯から◯までのくだり、これは先日、誰かのブログで見かけた、何処かの誰かの論である。僕の意見ではない。

なるほどなあと思うから、僕の言葉で引用させてもらった。決して剽窃ではないので、お許しを願いたい。



なぜこのような書き方をするかといえば、無論、なるほどなあとは思いつつも、僕の考えが先の引用と、必ずしも一致していないからである。

サンがその存在意義を失った点については、僕自身あまり気がついていなかったので、どこかの誰かのブログを拝読していて、大きく目を開かされた。


ただ、存在意義の消失が、エボシへの激しい殺意につながっているという意見に関しては、あまり頷けない。

 


もちろん、サンの深層心理において、そうした情動があった可能性は否めないけれども、僕は殺意の原点をそこに見ない。理由としては、第2の部類に属すると思う。

 

 

「エボシが実はサンの母親である」
という都市伝説については、この際まったく無視することとして、
では、サンがエボシに殺意を抱き、人間を憎む第1の理由とはなんだろうか。

 

あくまでも、僕が思う答えとして聞いてもらいたい。
サンがエボシを狙う理由は、単純に、サンが山犬モロの娘だから、である。

 

つまり、何が言いたいかというと、山犬の娘としての情動が、ヒトとしての情動よりも先に立っているはずだ、ということである。

「人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ」
と、モロは言った。しかしそれ以上に読み取りたいのは、その直後、

 

「哀れで醜い、可愛い我が娘だ」

 

という言葉に込もる真意であろう。


サンは人間ではないし、山犬でもない。
だから、もののけ達を襲った、衰退と破壊の事実に対して、サンが怒りを抱く所以は、実はどこにもないのである。


山犬でも人間でもないサンは、この原始宗教衰退に、生物としてなんら関わりを持つことができないのだ。

 

しかしながらサンは確実に、山犬モロによって育てられた、山犬モロの娘である。この事実は、動かしようがない。

 


回りくどい言い方になってしまったが、要するに、

 

「母やその仲間が侵されている」
「自らの育った場所が侵されている」

 

ことに対する、激しい怒りをサンは感じ得るし、その資格を持ち合わせている、と言うことだ。
自らの存在意義が云々というよりも、むしろこのラインで考えた方が、いたって自然であろう。



2.旧人として

とはいえ、サンが生物種としてヒトであることを、完全に無視することはできない。
それを無視して良いならば、そもそも、もののけ姫なんて映画を作る意味がない。

ではヒトとしてのサンを、果たしてどう位置付けることができるだろうか。

もちろん、先に引用したような、
「神に生贄として捧げられた少女」
としての位置付けは可能であるが、僕はそこから、もう一歩踏み込んだ意味付けをしたい。

神に生贄として捧げられた少女であるがゆえに、サンは、
「いま尚もののけを崇敬するヒト」
である。

 


今回、このようなヒトを示す言葉として、造語であるが、
旧人
という語を、用いることとする。

 

何度も何度も書いてきたように、この作品で描かれた時代は、
文明の進歩によって、神が神でなくなっていった時代である。

 


だからと言って、世界中のヒトが、一気にその信仰を失ってしまったかといえば、そうではないだろう。
作中には登場しないが、遊芸により生きる者であるとか、それこそ神職を務めるような人々は、古来より受け継がれてきた自然信仰を、そう簡単に手放したり、破壊したりはしなかったはずだ。

 


もののけ姫という作品のややこしさが、実はここに隠れているように思う。
つまりは作中で、旧人がサンしか登場しないということである。
(サンの崇敬は、例えば、乙事主への態度などからわかる)


タタラ場の民は、もののけを未だ脅威とみなしてはいるものの、
エボシと石火矢の到来以降、そこに崇敬の念は失われてしまっただろうし、いわんや、もののけとの共生を志向するものなど、誰一人いなかった。

 


山と湖に囲まれ、都や城下からも離れた、事実上の独立都市であるタタラ場という環境が、旧人としてのサンの性質を、見えにくく見えにくくしているのである。

 


もし仮に、あの地域に一人でも神職を志すようなヒトがいれば、サンの在り方は変わっていたはずだ。
(もちろん、そんなことをしてしまったら、サンの魅力は相当薄れてしまうし、なにより、物語として面白くない。)

 

 

だからこそ、アシタカの登場が意味を持つのである。