もののけ姫考察①


本当に、あらすじくらい、wikipediaに任せたらよかった。後悔している。


さて。丁寧かつ詳細な(長すぎる)あらすじ、ご拝読いただけただろうか。
もし最初から最後まで、こんがらがることなく読めた未見の人がいるのなら、その人は、すごい。

 

すごいけど、そんなことは割とどうでもいい。あらすじとか、僕の想像と実際とか、そんな諸々は、本当はどうでもいいことなのだ。

 

結局僕は、『もののけ姫』という作品に、いったい何を見たのだろうか。
何を見せられて、何に魅せられたから、こんなことになってしまっているのだろう。それを言葉でなんとかしないことには、この記事を書き始めた意味がない。旅日記を挟んでなお、2週間以上を費やしたのに、である。

 

僕は今、卒業論文を書いた時と同じモードになっているので、ここから急に、温度が変わる。
かなり真剣に、言葉を選んでいくのである。

 


wikipediaを見てみると、宮崎駿が意図したこの物語の主題が、ドキュメンタリー監督の浦谷年良によって、5つにまとめてある。

 


その内容と詳しい説明に関しては、今度こそwikipediaに譲ることとする。かなり答えに近い区分であり、正直、それを読んでいただければ、だいたい僕の言いたいこともわかるはずだ。

 

とはいえ、それら5つの主題分析にすべてを任せてしまうのでは、あれだけ詳細にあらすじを書いた、僕の時間が報われない。

 

僕なりに感じた、もののけ姫という作品の主題について、僕の言葉でまとめないことには、意味がないのよ。

 

 


●『もののけ姫』はなんの物語なのか

 

結論から言うと、僕は『もののけ姫』という作品を、

 

「神が神でなくなる時代に、神が変えられなかった物語」

 

なのだと考えている。意味わかんないね。
それがどう言う意味なのか、つらつらつらと、書き連ねていくのである。

 

 

●神は神でなくなり得る

言うまでもなく、神でなくなった神とは、もののけ達のことだ。

正確に言えば、

 

「ヒトにとってこれまで神(=畏怖崇敬の対象)であったもののけ達が、文明の進歩に伴って、力を失ってしまった」

ということである。

 



タタラ場に、エボシが石火矢衆を引き連れて現れた。
その結果、これまで民衆から恐れられていた猪たちが、恐るるに足らない存在になりさがってしまった。

 

勇猛な戦士であったナゴの守ですら、石火矢の礫に身をむしばまれ、恐怖の中で発狂し、タタリ神に身を落としたのである。

 


もはやもののけは、ヒトよりも弱い存在になってしまった。
おそらく、これと似たようなことが、作品で描かれた地域のみならず、作品世界のいたるところで起こっていたはずだ。

 


それどころか、こうした「神の弱体化」、すなわち「原始宗教の衰退」は、我々の暮らす現実世界の至る所で生じてきたし、今も生じ続けている、ある種のプロセスである。

「神の弱体化」などあり得るのか?という疑問を、持った人がいるかもしれない。至極当然な疑いであるが、だがしかし、あり得るのである。

 

なぜならば、神という存在を神たらしめているのは、認識者(ヒト)の畏怖と崇敬、あるいは親和の念だからである。

 


文明の進歩(作中では、石火矢の登場に代表されている)によって、人々は様々な脅威から解放されていった。


それはまさしく、ルネサンス期に、羅針盤が海の脅威を減退させたように。
そしてまた、電気の普及が、夜の闇から人々を解放したように、である。

 

もののけ姫』という作品はまさに、文明が神(畏怖の対象であった、自然や動物)を、神として認めなくなっていく過程、それを可視化し、かつ象徴化した物語である。


神が神足り得るのは、認識者であるヒトが、対象を神として認めている時だけなのである。


もののけは弱体化し、もはや人間から、神として認識されなくなった。駆逐でき得る化け物として、認識されるようになったのである。
これこそが、この物語第一のポイントだ。

 

それでは、変えられなかった神とは、なんであろうか。
弱体化し得る神とは、異なった存在なのだろうか。

 

 

その答えは最後のお楽しみ、今回の考察の肝としておいて、次に、主人公たちの位置付けをはっきりさせようと思う。