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もののけ姫考察③

もののけ姫考察

●サンにとってのアシタカ

 

アシタカ、ひいては蝦夷の一族は、まさに今、淘汰され、滅びにむかおうとしている一族であり、その点において彼らは、もののけ達と道を同じくしている。

 

また、狩猟採集民族である彼らは、変わりつつある大和民族とは違い、今なお、原始宗教的な信仰を保つ一族であり、そう言った点を鑑みても、彼らは「旧人」の側に分類できると言えよう。(タタリ神への対応ひとつ取っても、タタラ場の民とは全く異なる)

 

 

その長となるべき若者、アシタカは、タタラ場に至るまでの旅路で、この国の、また、時代の変化を目の当たりにしてきたはずだ。

 

もはや蝦夷の一族の在り方、つまり旧時代的なヒト(=旧人)の在り方が、通用しない世の中になりつつあることを、彼はその身を以て学んでいたはずである。(貨幣経済への不適応が好例)

 

 

その旅路の末に、タタラ場の社会的平等 ―これはあくまでも、作られた平等だ― を目にした彼は、そこでの歓待を受け入れる。

 

自ら大屋根の作業を手伝う姿勢などを見ても、決してタタラ場の暮らしに対して、悪い印象を抱かなかったことはわかるだろう。

 

アシタカはタタラ場の暮らしそのものを、悪とは認識していなかったのである。そもそもそうでなければ、物語のクライマックスにおいて、アシタカがタタラ場での暮らしを受け入れようはずもない。

 

 

 

しかし、そうは言うもののアシタカは、本項冒頭で示した通り、もののけたちと道を同じくしている一族、蝦夷の若者である。

 

もののけや、森の暮らしを蔑ろにする人間の在り方を、合理的であるとは理解しつつも、全面的に良しとはしてない。

 

 

だからこそ、葛藤が生じる。言うまでもなくその葛藤は、作中で何度も用いられる、

「共に生きる」

という言葉に集約されている。

 

 

 

サンにとってアシタカは、初めて出会った理解者、認識の共有者である。

 

前項で示した通り、少なくともサンはこれまで、自分と同じタイプのヒト(=旧人)と、出会うことがなかった。

 

サンにとって全てのヒトは、

もののけや、森の暮らしを蔑ろにする存在(=人間)」

であり、はっきり言えば敵である。

 

世の中いろんなヒト(今回で言えば、人間と旧人、のような)がいるなんてことは、思考の端にすら存在しなかったことだろう。

 

だからこそ、サンはアシタカと出会ったことで、多少なりとも心動くのである。

 

 

 

●サンは「人間」を許すことができない

 

前項の最後で、「多少なりとも」という表現を用いた。それはなぜかというと、実はアシタカの登場すら、サンの『人間』に対する認識を全て覆すだけの力は、持っていなかったからである。

 

 

物語のラストシーン、

「アシタカは好きだ。けど、人間を許すことはできない。」

と言って、サンは森へと戻っていく。

 

 

このセリフ、よく読み解いてほしい。

サンは、アシタカを、人間に分類していないのである。

 

もしこのセリフが、

「アシタカは好きだ。けど、他の人間を許すことはできない。」

であったならば、ラストシーンの持つ意味合いが、大きく変わってきたことだろう。

 

 

だが、実際にサンの口から発された言葉は、違うのである。

彼女はアシタカを、人間と別のところに置いている。つまり、

 

「人間=森を侵す敵」

 

という、彼女が持っていた認識そのものは、未だ取り払われていないし、取り払えないのだ。

 

 

 

本項の項題を見てほしい。サンは「人間」を許すことができない、である。

 

サンが「人間」を許すことができないというのは、感情的にということではなく、物理的に、なのだ。

 

なぜなら、サンにとって「人間」とは、生物種ヒトのうち、敵を指して用いられる言葉だからだ。

 「人間」という言葉が、「敵」という言葉と同義である以上、サン自らが「人間」になれないのはもちろん、サンがもし「人間」を許したとしても、もはやその対象であるヒトは、「人間」に該当しない存在になってしまうのである。

 

ちょうどアシタカが、「人間」から、アシタカとして認識されたのと同様に。

 

 

つまりは、サンがどれだけどう心変わりしたとしても、「人間」を許すという行為そのものが、サンには不可能である、ということだ。

 

 

 

なので、もしサンとタタラ場が和解する道が残されているとすれば、

「タタラ場の民が人間(=森の敵)ではなくなること」

しかない。はっきり言って、ありえない道である。

 

だからこの映画、難しいのである。

人間は森の敵だからこそ人間なのであって、サンはヒトであるけれども、どうあがいたって、人間に戻ることはできないし、人間を許すことはできないのである。

 

 

 

相当ややこしくなってきたので、この考察における言葉の使い方を改めてまとめると、

 

 

 

人間=森を侵すヒト、エボシ筆頭に、タタラ場の民など

 

旧人=森を崇敬するヒト。サン。

 

ヒト=生物種としてのヒト。人間と旧人

もののけ姫考察②

もののけ姫考察


●サンの位置付け

 

1.山犬の娘として

サンが果たしてどういう存在であるのかは、かの有名なシーンにおいて、山犬モロが明言してくれている。美輪明宏の声で。以下に引用する。


「黙れ小僧!
お前にあの娘の不幸が癒せるのか。
森を侵した人間が、我が牙を逃れるために投げてよこした赤子がサンだ。
人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い、可愛い我が娘だ。」



ここに見ての通り、サンの存在意義が集約されている。つまりサンは、神への生贄なのである。

神への生贄として捧げられた少女。
この字面だけを見れば、不幸であるけれども、ある種殉教のような、神聖なイメージすら感じられる。

しかしながら、それはもはや、過去の話となってしまったのだ。
エボシの登場は、山犬モロを、神からもののけ、忌むべき化け物へと変えてしまったのだ。
そうなればもはや、サンは神への生贄ではない。
ただの、化け物の娘だ。

サンがエボシの命を執拗に狙うのは、森の仇敵であるという理由以上に、
「自らの存在価値を奪った」
ことへの恨みがあるからではないか。





・・・と、◯から◯までのくだり、これは先日、誰かのブログで見かけた、何処かの誰かの論である。僕の意見ではない。

なるほどなあと思うから、僕の言葉で引用させてもらった。決して剽窃ではないので、お許しを願いたい。



なぜこのような書き方をするかといえば、無論、なるほどなあとは思いつつも、僕の考えが先の引用と、必ずしも一致していないからである。

サンがその存在意義を失った点については、僕自身あまり気がついていなかったので、どこかの誰かのブログを拝読していて、大きく目を開かされた。


ただ、存在意義の消失が、エボシへの激しい殺意につながっているという意見に関しては、あまり頷けない。

 


もちろん、サンの深層心理において、そうした情動があった可能性は否めないけれども、僕は殺意の原点をそこに見ない。理由としては、第2の部類に属すると思う。

 

 

「エボシが実はサンの母親である」
という都市伝説については、この際まったく無視することとして、
では、サンがエボシに殺意を抱き、人間を憎む第1の理由とはなんだろうか。

 

あくまでも、僕が思う答えとして聞いてもらいたい。
サンがエボシを狙う理由は、単純に、サンが山犬モロの娘だから、である。

 

つまり、何が言いたいかというと、山犬の娘としての情動が、ヒトとしての情動よりも先に立っているはずだ、ということである。

「人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ」
と、モロは言った。しかしそれ以上に読み取りたいのは、その直後、

 

「哀れで醜い、可愛い我が娘だ」

 

という言葉に込もる真意であろう。


サンは人間ではないし、山犬でもない。
だから、もののけ達を襲った、衰退と破壊の事実に対して、サンが怒りを抱く所以は、実はどこにもないのである。


山犬でも人間でもないサンは、この原始宗教衰退に、生物としてなんら関わりを持つことができないのだ。

 

しかしながらサンは確実に、山犬モロによって育てられた、山犬モロの娘である。この事実は、動かしようがない。

 


回りくどい言い方になってしまったが、要するに、

 

「母やその仲間が侵されている」
「自らの育った場所が侵されている」

 

ことに対する、激しい怒りをサンは感じ得るし、その資格を持ち合わせている、と言うことだ。
自らの存在意義が云々というよりも、むしろこのラインで考えた方が、いたって自然であろう。



2.旧人として

とはいえ、サンが生物種としてヒトであることを、完全に無視することはできない。
それを無視して良いならば、そもそも、もののけ姫なんて映画を作る意味がない。

ではヒトとしてのサンを、果たしてどう位置付けることができるだろうか。

もちろん、先に引用したような、
「神に生贄として捧げられた少女」
としての位置付けは可能であるが、僕はそこから、もう一歩踏み込んだ意味付けをしたい。

神に生贄として捧げられた少女であるがゆえに、サンは、
「いま尚もののけを崇敬するヒト」
である。

 


今回、このようなヒトを示す言葉として、造語であるが、
旧人
という語を、用いることとする。

 

何度も何度も書いてきたように、この作品で描かれた時代は、
文明の進歩によって、神が神でなくなっていった時代である。

 


だからと言って、世界中のヒトが、一気にその信仰を失ってしまったかといえば、そうではないだろう。
作中には登場しないが、遊芸により生きる者であるとか、それこそ神職を務めるような人々は、古来より受け継がれてきた自然信仰を、そう簡単に手放したり、破壊したりはしなかったはずだ。

 


もののけ姫という作品のややこしさが、実はここに隠れているように思う。
つまりは作中で、旧人がサンしか登場しないということである。
(サンの崇敬は、例えば、乙事主への態度などからわかる)


タタラ場の民は、もののけを未だ脅威とみなしてはいるものの、
エボシと石火矢の到来以降、そこに崇敬の念は失われてしまっただろうし、いわんや、もののけとの共生を志向するものなど、誰一人いなかった。

 


山と湖に囲まれ、都や城下からも離れた、事実上の独立都市であるタタラ場という環境が、旧人としてのサンの性質を、見えにくく見えにくくしているのである。

 


もし仮に、あの地域に一人でも神職を志すようなヒトがいれば、サンの在り方は変わっていたはずだ。
(もちろん、そんなことをしてしまったら、サンの魅力は相当薄れてしまうし、なにより、物語として面白くない。)

 

 

だからこそ、アシタカの登場が意味を持つのである。

もののけ姫考察①

もののけ姫考察


本当に、あらすじくらい、wikipediaに任せたらよかった。後悔している。


さて。丁寧かつ詳細な(長すぎる)あらすじ、ご拝読いただけただろうか。
もし最初から最後まで、こんがらがることなく読めた未見の人がいるのなら、その人は、すごい。

 

すごいけど、そんなことは割とどうでもいい。あらすじとか、僕の想像と実際とか、そんな諸々は、本当はどうでもいいことなのだ。

 

結局僕は、『もののけ姫』という作品に、いったい何を見たのだろうか。
何を見せられて、何に魅せられたから、こんなことになってしまっているのだろう。それを言葉でなんとかしないことには、この記事を書き始めた意味がない。旅日記を挟んでなお、2週間以上を費やしたのに、である。

 

僕は今、卒業論文を書いた時と同じモードになっているので、ここから急に、温度が変わる。
かなり真剣に、言葉を選んでいくのである。

 


wikipediaを見てみると、宮崎駿が意図したこの物語の主題が、ドキュメンタリー監督の浦谷年良によって、5つにまとめてある。

 


その内容と詳しい説明に関しては、今度こそwikipediaに譲ることとする。かなり答えに近い区分であり、正直、それを読んでいただければ、だいたい僕の言いたいこともわかるはずだ。

 

とはいえ、それら5つの主題分析にすべてを任せてしまうのでは、あれだけ詳細にあらすじを書いた、僕の時間が報われない。

 

僕なりに感じた、もののけ姫という作品の主題について、僕の言葉でまとめないことには、意味がないのよ。

 

 


●『もののけ姫』はなんの物語なのか

 

結論から言うと、僕は『もののけ姫』という作品を、

 

「神が神でなくなる時代に、神が変えられなかった物語」

 

なのだと考えている。意味わかんないね。
それがどう言う意味なのか、つらつらつらと、書き連ねていくのである。

 

 

●神は神でなくなり得る

言うまでもなく、神でなくなった神とは、もののけ達のことだ。

正確に言えば、

 

「ヒトにとってこれまで神(=畏怖崇敬の対象)であったもののけ達が、文明の進歩に伴って、力を失ってしまった」

ということである。

 



タタラ場に、エボシが石火矢衆を引き連れて現れた。
その結果、これまで民衆から恐れられていた猪たちが、恐るるに足らない存在になりさがってしまった。

 

勇猛な戦士であったナゴの守ですら、石火矢の礫に身をむしばまれ、恐怖の中で発狂し、タタリ神に身を落としたのである。

 


もはやもののけは、ヒトよりも弱い存在になってしまった。
おそらく、これと似たようなことが、作品で描かれた地域のみならず、作品世界のいたるところで起こっていたはずだ。

 


それどころか、こうした「神の弱体化」、すなわち「原始宗教の衰退」は、我々の暮らす現実世界の至る所で生じてきたし、今も生じ続けている、ある種のプロセスである。

「神の弱体化」などあり得るのか?という疑問を、持った人がいるかもしれない。至極当然な疑いであるが、だがしかし、あり得るのである。

 

なぜならば、神という存在を神たらしめているのは、認識者(ヒト)の畏怖と崇敬、あるいは親和の念だからである。

 


文明の進歩(作中では、石火矢の登場に代表されている)によって、人々は様々な脅威から解放されていった。


それはまさしく、ルネサンス期に、羅針盤が海の脅威を減退させたように。
そしてまた、電気の普及が、夜の闇から人々を解放したように、である。

 

もののけ姫』という作品はまさに、文明が神(畏怖の対象であった、自然や動物)を、神として認めなくなっていく過程、それを可視化し、かつ象徴化した物語である。


神が神足り得るのは、認識者であるヒトが、対象を神として認めている時だけなのである。


もののけは弱体化し、もはや人間から、神として認識されなくなった。駆逐でき得る化け物として、認識されるようになったのである。
これこそが、この物語第一のポイントだ。

 

それでは、変えられなかった神とは、なんであろうか。
弱体化し得る神とは、異なった存在なのだろうか。

 

 

その答えは最後のお楽しみ、今回の考察の肝としておいて、次に、主人公たちの位置付けをはっきりさせようと思う。

もののけ姫のあらすじ

もののけ姫考察

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我が名は田吾作!
はるか東の海の街より、およそ2時間ぐらいを費やし、この記事を完成させた!

 


アシタカが言わないとかっこよくないね。

 


ちなみに、「あらすじ」とはいうものの、全然粗くない。むしろ、過剰なまでに詳細である。僕は昔から、あらすじを書くのが苦手なのだ。
詳細に、詳細に書いてしまったから、完全に、完全にネタバレになってしまうので、嫌な人はこの森から去れ!






●あらすじ


昔、まだ日本にたくさんの神々がいた頃のこと。
ヤマトとの争いに敗れた蝦夷の一族は、はるか東(北と東の間、という言及があるから、東北)へと追いやられていた。
主人公アシタカは蝦夷の若者で、いずれは長となるべく教育を施されてきた、寡黙だが正義感の強い、強くて芯のある美少年である。

 


ある日、村を襲ったタタリ神を退治した際、死の呪いを右腕に受けてしまったアシタカ。
呪いを解く鍵を探すため、相棒のアカシシ(大きな鹿)・ヤックルに乗って、西へと旅に出る。
許嫁であるカヤは、生涯純潔を守る近いとして、アシタカに黒曜石の小刀を渡し、去りゆく背中を見送るのであった。
(※描写はされていないが、実際は、差別によって村を追われている)

 

旅の途中に出会った、ジコ坊という僧侶に、シシ神という生と死を司る神がいるという話を聞き、アシタカはシシ神の住む深森へと向かう。

 

 

道中、河原で休息を取ろうとしたアシタカは、河の中で呻き声をあげる二人の男を見つけ、介抱する。
彼らは、タタラ場と呼ばれる地に住む製鉄の民であった。
物資の運搬中、もののけ"山犬"に襲われて、渓谷を落下したものの、一命を取り留めたのである。

 


男たちを介抱しながら、何かの気配を感じて、アシタカは対岸へ目を向ける。
そこには、傷ついた一匹の大きな山犬(モロ)と、二匹の小さな山犬、そして、人間の少女(サン)が居た。
名乗りを上げて、彼女らの出自を尋ねるアシタカであったが、山犬たちは相手にせず、森の中へと消えていく。

 


森の木霊(綺麗な森に住むという、小さな精霊)に案内されながら、
足の骨を折った男(甲六)をヤックルに乗せ、もう一人の男を背負い、アシタカは森を進む。

坂を越えて、水辺にたどり着いた一行。休息を取ろうとしたところ、アシタカの呪われた右腕に激痛が走る。
辺りを見回すと、樹々の間が神々しく輝き、その向こうから、鹿のような影がこちらを見ていた。シシ神である。
この地こそが、シシ神の森だったのだ。


シシ神が去り、腕の激痛が治っても、呪いそのものはまだ癒えていなかった。神妙な面持ちで、再び道を取るアシタカたち。
たどり着いたタタラ場は、エボシ御前と呼ばれる女性が統べる、独立した城のような街であった。
女性も病人(ハンセン病患者である)も、分け隔てなく扱うエボシを、皆は敬愛し、人々は活き活きとした暮らしを送っていた。

 


アシタカはそこで、甲六達を襲った山犬の一族についての話を聞き、昼間見た少女が、「もののけ姫」と呼ばれて蔑まれ、怖れられていることを知る。

 


夜になり、エボシの屋敷へと招かれたアシタカ。
エボシは、石火矢と呼ばれる火砲を用いて、山のもののけ達を制圧し、人間の領地をどんどんと広げていた。

実は、はるか東でアシタカに呪いをかけたタタリ神も、この地でエボシの石火矢に敗れた、ナゴの守という大イノシシだったのだ。
ナゴの守は、死の恐怖の中で発狂し、東へと猛進する中で、様々な恨みや憎しみといった負の念をその身に吸い込み続け、結果、タタリ神へ身を落としたのである。

 


アシタカは、人間の勝手によってもののけの森が奪われ、切り拓かれている現状に憤り、自らの不幸な運命も相まって、複雑な感情を抱えたまま、エボシの屋敷を去る。

 

 

ちょうどその夜、モロを除いた山犬の一族がタタラ場を襲撃し、エボシの命を狙う。
単身突入してきたもののけ姫・サンは、街の屋根を伝ってエボシの元へと走るが、石火矢の前に返り討ちに遭い、大屋根から転げ落ちる。

 

アシタカは、気を失っているサンの危機を救い、サンを連れて街の外へと去っていくが、その際、石火矢に胸を貫かれ、瀕死の重傷を負ってしまう。


意識を取り戻したサンは、憎むべき「人間」であるアシタカにとどめを刺そうとするが、
「生きろ、そなたは美しい」
というアシタカの言葉に動揺し、彼をシシ神の湖へと連れていく。

その夜、湖に寝かされたアシタカの元に現れたシシ神は、彼の傷を癒す。
それを見たサンは、アシタカを生かすことを決め、次第にアシタカに心を開いていくのであった。


アシタカが意識を取り戻した日、シシ神の森へ、大量の猪達が現れた。猪の大長老である乙事主が、人間に最後の戦いを挑むために、各地から猪達を率いてやってきたのである。
乙事主は、一族からタタリ神(ナゴの守)が出たことを哀しみ、アシタカに詫びながらも、
次に会った時には、人間であるアシタカを殺すことになるので、森を去るようにと伝える。


シシ神は、アシタカの傷は癒したが、呪いを解きはしなかった。
呪いと共に苦しんで生きろという、シシ神の啓示であると解し、半ば諦観するアシタカ。
それでもなお、森と人間が共に生きる道はないのかと、思い悩む。

 

一方タタラ場には、唐傘連と呼ばれる集団が、天朝(みかど)の勅命を受けて、シシ神退治に訪れていた。
その頭領こそ、アシタカにシシ神の存在を教えた僧侶、ジコ坊であり、彼はエボシとも旧知の仲であった。

シシ神の首に宿るという不老不死の力を求める朝廷貴族、
もののけを忌み嫌うエボシ、
金と名誉のためにシシ神退治を目指すジコ坊ら唐傘連、
それぞれの思惑が絡まる中で、シシ神退治の日は近づいていく。

 

それから何日も、アシタカは眠ったままであった。
ある夜、目を覚ましたアシタカは、隣で眠るサンを置いて、洞窟の外へ出る。


そこでアシタカは山犬モロと面会し、間も無く最後の決戦が始まるであろうことを教えられる。
アシタカは、サンを解き放つように説得するが、モロはアシタカを一喝する。人間の業の深さ、手前勝手さを嘲笑し、サンの不幸な境遇について語り、じきに呪いによって死ぬであろうアシタカに、この森を去るよう告げるのであった。

 

アシタカはなおも、森と人間が共に生きる道はないかと考え、再び眠りにつく。

 

 

目が覚めた時、サンはすでに洞窟にいなかった。
ヤックルに乗り、森を去ろうとするアシタカを、山犬が案内する。アシタカは山犬に、カヤからもらった黒曜石の小刀を預け、サンに渡してくれと頼むのであった。

 

 

一方サンは、猪の一族に加勢して、人間相手に最後の大決戦をしかけるところであった。
森から聞こえる轟音を訝しく思いつつ、道を進むアシタカ。
ふと目をやると、タタラ場から火の手が上がっているのが見える。エボシや男手が、シシ神退治で留守にしている間を狙って、侍たちが鉄を狙い、攻めてきたのである。

 


この事実をエボシに伝えようと、またそれ以上に、サンの身を案じて、再び森に戻るアシタカ。
森では、そこら中に猪の死骸が転がっており、タタラ場の男たちも、大勢が犠牲となっていた。

 


猪の死骸に挟まれ、身動きが取れなくなっていた山犬を助け、サンの元へ向かうアシタカ。
途中、エボシにタタラ場の状況を告げるが、エボシは意に介さず、シシ神退治の進軍を続けるのであった。

 

 

その頃サンは、手負いの乙事主を連れて、シシ神の湖へと向かっていた。
シシ神の湖へ行けば、傷を癒してもらえるのではないかと考えたのである。

 

そこへ、地走(じばしり)という、ジコ坊が雇った特殊な狩人たちが現われる。
彼らは、猪の生皮を剥ぎ、それを身につけ地べたを走り回る事で、味方を装って獲物に近づくのである。
これを見た乙事主は、死んだ戦士たちが蘇ったのだと興奮し、理性を失い、ついにタタリ神へと身を落として、近くにいたサンをも飲み込んでしまう。

 

 

ようやくサンたちの元へたどり着いたアシタカは、乙事主に飲み込まれたサンの救出を図るが、暴れる乙事主によって、湖まで跳ね飛ばされてしまう。


湖のほとりでは、先日の傷に加えて、すでに寿命で死にかけの状態であったモロが横たわっていて、サンの危機になんとか立ち上がり、乙事主に向かっていく。
サンを救い出したモロは、アシタカにサンをたくして、なおも乙事主の暴走を食い止め続けたが、そこへシシ神が現れて、瀕死の乙事主と、モロの命を吸い取り、二人は息絶える。

 


その様子を隠れて見ていた、シシ神退治の一軍。そこから飛び出したエボシは、新型の石火矢を構えて、シシ神を殺そうと試みる。

妨害を試みるアシタカであったが、新型の石火矢の威力は強く、ついにエボシはシシ神の首を打ち抜き、その首を鉄桶に収めて、ジコ坊たちは逃げ去っていく。
すると、シシ神の体から不気味な液体のようなものが噴出し、液体に触れたものが次々に絶命していく。

 

液体は、津波のように森を覆い、森の木々は枯れ、動物は死に、湖も汚染されていく。
時に液体は、手のような形になり、ジコ坊たちの行く先を遮る。シシ神は、自らの首を探すために、液体を撒き散らしているのである。

 

動揺するエボシ。そこへ、死んだはずのモロの首が飛んできて、エボシの右腕を、石火矢ごと食いちぎってしまう。
山犬は、死してなお首だけになって、復讐を果たすのである。

 


手負いのエボシと、その家来ゴンザに、急いで山を降りるよう指示するアシタカ。
サンは手負いのエボシにとどめを刺そうとするが、仇はすでにモロがとったとして、アシタカはそれを押しとどめる。
アシタカがエボシをかばう様子に、サンは怒るが、そんなサンをアシタカは抱きしめて、なだめるのだった。

 

 

森が死んでしまったと嘆くサンに、首をシシ神に返せば、まだ間に合うかもしれないと言うアシタカ。
タタラ場の人たちに、不気味な液体に触れぬように逃げろと伝えて、首を取り返そうと奔走する。


二人はジコ坊たちを追いかけ、追い詰めて、なんとか首を取り返し、シシ神に向かって掲げる。
首を取り戻したシシ神は、正常なデイダラボッチの姿に戻るが、
そのまま仰向けにひっくり返り、風となって消える。

風に煽られ、吹き飛ばされそうになる中、アシタカは再度サンを抱きしめる。
シシ神だった風は山や森を包み、タタラ場など、人間によって切り拓かれた土地をも、再び緑溢れる大地へと変貌させた。


風を浴びた人々のうち、生きているものの怪我は治り、病人の皮膚なども元に戻る。

 


生い茂る草葉の中で、目を覚ましたアシタカ。胸の中に抱きしめたサンをゆり起し、再び溢れた緑の大地を、二人で眺める。
シシ神が死んでしまったと嘆くサンに、生死そのものであるシシ神は死なないと、アシタカは語るのだった。

 

 

場面が変わり、山犬の背中にまたがるサン。
アシタカは好きだが、人間を許すことはできないとして、森で暮らすことを告げる。
アシタカはそれを了承し、タタラ場に残り、そこで暮らすことを決意する。

 


森とタタラ場、別々の場所で共に生きること、ヤックルに乗って、また必ず会いに来ることを約束して、アシタカはサンと別れるのであった。

もののけ姫考察 序文

もののけ姫考察

 

まずはじめに断っておくが、今回の考察文、たぶんネタバレを多分に含むから、嫌な人はここで読むのをやめたほうがいいと思う、たぶん。未視聴の自分、その愚かさを恨んで涙してほしい。

 

まず作品について、テレビやインターネットスラングなどを通じて、観賞前から知っていたことと、そこから想像していた、僕の中の作品像について、まとめてみようとおもう。

 


●知っていたこと

・ヒロインは狼(正確には山犬)に育てられた、捨てられた人間。

・「生きろ、そなたは美しい」とか言う気障な主人公。

・「あの娘を解き放て、あの娘は人間だぞ!」って主人公が言うて、山犬に「黙れ小僧!」って言われる

・ウニョウニョした気持ち悪いものが、坂を転がり下りてくる。たぶん敵みたいな感じ。

・感情が高ぶると、髪の毛がサファってなる

 


●これまで持っていたイメージ

もののけ姫って言うくらいだから、ヒロインは姫なんだろう。

②姫ってことは、国があるんだろう。もののけの国、みたいな。
つまりは、異世界のファンタジー物語なのだ。
で、ヒロインは姫って言うぐらいだから、そこでもののけ達に愛されている存在なのだろう。ナウシカみたいな。

 


③主人公はたぶん旅人で、もののけの国にやってきて、ヒロインと出会い、いい感じになる。「生きろ、そなたは美しい」とか言ってるし。
それで、なんじゃかんじゃ言うて人間であるヒロインを連れて帰ろうとして、黙れ小僧される。
ちなみに、大きな狼はヒロインの側近であり相棒であり親友みたいな立ち位置。

 

④結局、例のウニョウニョに襲われたもののけの国を、主人公とヒロインが力を合わせてなんとかして、大団円、みたいな。

 

 

 

 

 

 

 

いやもう、目も当てられない。

芸人のネタとか友達のモノマネとか、インターネットスラングとか金曜ロードショーTLとか、
そういう粗雑な情報をもとに映画を制作すると、こんなことになってしまうのだ。恐ろしい。

 

だいたい、「みたいな」って、何回言うんだ。コギャルか。くだ狐を使い魔にでもしてんのか。
元ネタのわかりにくい小ボケをするな。反省をしろ。


反省をしたから、次に行く。

 

 

 

●実際どんなんだったのか

詳しいあらすじを書くことまではしない。これは本当にしない。面倒だからだ。

代わりに、「想像とどれくらいずれていたのか」について、先述の想像作品像と関連づけながら述べていく。


もののけ姫って言うくらいだから、ヒロインは姫なんだろう。
②姫ってことは、国があるんだろう。もののけの国、みたいな。
つまりは、異世界のファンタジー物語なのだ。
で、ヒロインは姫って言うぐらいだから、そこでもののけ達に愛されている存在なのだろう。ナウシカみたいな。

全然姫じゃなかった。
もののけ姫」というのは、タタラ場の民による蔑称だった。
もののけの国なんてものもなくて、山犬はモロ(黙れ小僧の人)を含めて3匹しかいなかった。

たぶん、『千と千尋の神隠し』的なイメージが、どこかにあったのだと思う。油屋の世界のように、人間ではないものの世界があって、そこに迷い込むような話ではないかと、誤解していたのだろう。

 

そしてなにより、舞台が日本である。これには一番驚いた。
もちろん、全くそのままの日本というわけではない。
あくまでも、日本をモデルとした別世界の話ではあるのだが、
蝦夷という呼称や、山や森林を主とした原風景など、異世界と呼ぶことは到底できない世界が、物語の舞台となっていた。

 

 

よくよく考えてみれば、宮崎駿の作品で、全くの異世界が舞台になっている作品は、ひとつもなかった。
あの『千と千尋の神隠し』ですら、主人公千尋は、現実世界日本から、油屋の世界に迷い込むのである。

 

その他、凝縮したようなヨーロッパを擁する『天空の城ラピュタ』であったり、1000年後の世界を舞台とした『風の谷のナウシカ』であったり、二度の戦争を経験しなかった『魔女の宅急便』の世界であったり。

 

日常世界とは言えないまでも、あくまでも現実の世界、その延長線上をモデルとして、宮崎映画は作られていた。
簡単に「異世界ものだ」などと誤解していた自分が恥ずかしい。そんなわけがなかった。反省をしろ。

 

 

反省をした。

 

 


③主人公はたぶん旅人で、もののけの国にやってきて、ヒロインと出会い、いい感じになる。
それで、なんじゃかんじゃ言うて人間であるヒロインを連れて帰ろうとして、黙れ小僧される。
ちなみに、大きな狼はヒロインの側近であり相棒であり親友みたいな立ち位置。

 

 

主人公(アシタカ)が旅人であるというのは、間違いではない。
ただ、その旅の動機について、まったく関知していなかった。
ウニョウニョ(タタリ神)を退治するために諸国を巡っている、程度に認識していた。

まさかウニョウニョのせいで、いやいや旅をすることになっていたとは。

 

 

もちろん、サンとモロの関係性についても、まったくの誤認であります。

そういえば、黙れ小僧!の位置関係も勘違いしていた。

 

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結局僕は、もののけ「姫」というタイトルに踊らされて、よくわからない作品イメージを持ってしまっていたのだ。

 

 

想像と実際をこのようにまとめるだけで、僕の無知をわかっていただけよう。

仕方ないじゃん、観たことなかったんだもの。

 

 

 


●あらすじをまとめる

想像していた作品像とは大幅に異なっていた、本当の『もののけ姫』。
後の感想文を書きやすくするために、大体のあらすじを書く。書いちゃう。さっき書かないって言ったけど、別にいいでしょう?あなたに不利益ないでしょう!

 

 

wikipediaのURLを貼ろうかと思ったが、そんなの面白くないから、書いちゃうのだ。


長くなるし、分かりづらいと思うから、面倒な人はwikipediaを見ればいい。見たらいいよ、頑張った僕を見捨てて。

3月14日に、見切り発車をする話

 

もののけ姫考察。

これを書くと言ってから、いったい、どれくらいの月日が流れたのだろうか。

もう全く覚えていないくらい、遠い記憶の彼方の発言であるように思える。

 

 

思えるだけだ。実際、全くそんなことはない。

調べて見たら、3月2日とか、3日とかの発言だった。

ブログを始めたおかげで、いちいち記憶していなくても、すぐに調べられるようになった。便利。

 

本当に便利。だけど、記憶力が悪くなりそうで怖い。とても怖い。直前のことも忘れてしまいそう。

 

 

ああ、怖いなぁ。ところで、何が怖いんだっけ?

 

 

正直、まだ考察文は完成していない。特に最終項が、なかなかまとまらない。

とはいえ、いつまでもいつまでも、先延ばしにはしていられない。卒業論文だって、提出期限があるから完成するのだ。

 

 

ということで、見切り発車をする。見切り発車をして、加筆修正しながら、完成に向けて気張ることにする。

 

故に、最終記事が公開されるまで、通常のブログ更新はできないことになる。許せ、ファン。

 

 

 

 

3月12日に、色々あった話

 

色々ありました。色々。

小さなことから、大きなことまで。


今ここで言えるのは、未来杯には出られないかもしれない、ということです。いつまでにキャンセルすればいいんだろう。


誰にも迷惑がかからない形で、生活を続けたいな。
僕にも、もちろん、あなたにも。


ただ、いいことがあったんだよって事を、あなたに伝えたいです。